確か、兼桝綾の『フェアな関係』(タバブックス)を読んでいたのは僕がジェンダー論とかフェミニズムについて勉強し始めた頃だったと思う。男である自分に纏わりついている汚らわしさ、いやらしさ、暴力性が暴かれて、蒙が拓けた気分に陥っていた。「正しくいなくちゃいけない」「自分は正しいはずだ」「男であるけど、自分は暴力から離れることができる」と必死に思い込んで、当時のTwitterで差別発言を繰り返す人々を眺めながら、「自分と彼らは違う。自分は適切になろうとしている」と唱え続けていた。そんなとき、この本に出会った。
短編集である『フェアな関係』の中に、「冬闘紛糾」という小説が収録されている。舞台はコロナ禍での、とある出版社。その年の冬期一時金の金額を会社と組合が交渉する風景が描写されている。組合が希望する金額を大きく下回る提案を会社側が提示したことで交渉は紛糾する。その交渉を最終的な妥結に導いたのがベテラン組合員の亀田。しかし、亀田の最大の目的は交渉の妥結ではなく、「自分の言葉で他者の心を動揺させること」だった。言葉を弄して、相手を揺さぶり、狼狽ぶりを見て、快楽を得る。極めて空虚な記号的戯れに興じるのが亀田の正体だった。
しかし、その亀田の正体を「ミレニアム生まれ高卒ギャル」こと丸本萌香が見抜く。「丸本にとっては言葉の強さこそが問題だった」とし、「亀田の言葉に宿る人を動かすことに対する喜び、それらを否定するような会議をやれる組合員になろう」と闘志を燃やす。
正しくなろうと必死だった当時の僕は、言葉の上では組合員のことを思い、会社側に対して一矢報いるような素振りをして、その内実は理念や信条は空っぽのままにして、空虚な言葉遊びで他者を翻弄することにエクスタシーを感じる亀田に自分を投影した。自分がやっていることって、これと同じなんじゃないか。正しくなろうとしているのは、ただ言葉の上の戯れに過ぎなくて、現実を生きる僕自身からはめちゃくちゃ乖離しているんじゃないか。常に適切でいるべきだ、なんて言葉は、嘘ですらない。ただ、自分が適切であることに酔うための劇薬なんじゃないか。適切になんてなれるはずもないのに。
そして丸本の亀田に対する批判に耳を傾ける。言葉の強さの問題。言葉が強ければ強いほど、相手も酔い、自分も酔う。でも、言葉を紡ぐのって酔うためだけじゃないはずだ。少なくとも僕にとっては。分節しきれない世界を分節しようとすること、適切になりきれない自分と向き合うこと、適切になりきれないけど決して到達できない「適切」を志向すること。そのために言葉はあるはず。
言葉に纏っていてほしいのは、強さじゃなくて、迷いだ。
小田垣有輝(おだがき・ゆうき)
国語科教諭。三児の父(『お笑い』が出た頃は二児でした)。文芸サークル「コトバノアリカ」主宰。個人文芸誌『地の文のような生活と』編著者。その他媒体にぽつりぽつりと出没。考えながら生きたい。

