2026年6月5日(金)、せんがわ劇場に行き、7度の演劇『アサッテの人』を観た。上演の始まりで説明があるのだが、原作の「アサッテの人」は諏訪哲史のデビュー小説で、群像新人文学賞と芥川龍之介賞をダブル受賞しており、20年近く前の当時、私は『群像』ですぐに読んでいた。この小説は私にとって衝撃を与えられるものだった。というのも、作品の根幹である登場人物の叔父が「ポンパ」と発する姿が、私の父親が口にしていた「オンドルキッキー」と重なったからだ。
当時、私は大学生で父、母、妹と4人で実家暮らしをしていた。父親は絨毯をメインに扱うインテリア会社に勤めていたサラリーマンだったのだが、仕事で人間関係がうまくいってないのか、しょっちゅう愚痴を家族にこぼしていた。一度などは私が一人でスーパーマーケットでの買い物を終えて外に出たところ「チキショー!!」という怒号とともに蹴り飛ばされた石ころが飛んできて、見たらその人物が仕事帰りの父親で、本当に嫌な気持ちになったことがある。ああ、だいぶいくところまでこの男はいっているのだなと思った。私が将来スーツを着て働くサラリーマンにはならないと決心したのもこの時だった。父親は誰かと働くというのが明らかに向いていない自己中心的な性格だったのに、家族のためにお金のために、自分を社会の枠の中に無理やり押しこめて労働していた。つねに苦しんでおり、ストレスは限界に達していた。
そんな時に父親の口から飛び出したのが「オンドルキッキー」である。テレビを眺めている時に口にすることが多かった。まるで南国の楽園でバナナをもいだ猿が喜悦をあげるように「オンドルキッキー」とテンション高く声を発しながら、胸元で鳥が羽ばたくように両手をバタバタと揺らす。「オンドル」は鳥で、「キッキー」が猿だったんじゃないだろうか。ちがうか。不気味で直接その件に触れたことは一度もないので真相は知るよしもない。
ともかく「アサッテの人」を読んだ時、この意味のわからないものに対し、腑に落ちることができた。一家の大黒柱が「オンドルキッキー」なんて言う事態は、一般的に言えば家庭の危機を迎えていたといっていいだろう。しかし「アサッテの人」を読んで、私はそれも何か面白いことに思えて笑えてきたのだ。あの頃の父親はおかしかった。何か問題を指摘すると、息子の私に対し「お前は俺を一生超えられない!」とスーパーサイヤ人のような台詞を宣うこともあった。眉間にシワの寄った怒りの表情に対し、目は何かに怯えているようにうつった。母親と妹は、怒鳴る父親に怯えていたが、私は父親が怒鳴れば怒鳴るほど冷静になっていった。もう父親は意味のわからない存在ではなかったし、つまらない人間だと感じていた。「オンドルキッキー」の方がよほど意味不明で面白い。
演劇の上演後に、諏訪哲史の本の物販があり『りすん』を購入した。「アサッテ」の実践篇とも呼べる「りすん」は2作目で、これも当時から読んでおり、時おり読み返してもいたが、今は手元になかった。
演劇の上演中、「アサッテの人」がこの2026年に舞台化される意味は何なのだろうと考えていた。恐らくXで佐々木敦による劇評のポストを目にした影響もある。演出の伊藤全記の意図とは異なるかもしれないが、私に関してはこの『りすん』という小説をいま手に取らされたことの意味は結構大きい。
「りすん」は全篇「」の会話文の応酬で出来上がった作品で、これは誰が読んでもというのはいいすぎかもしれないが、多くの人が戯曲のような小説と思うはずだ。非常に演劇的な作品である。
と、思っていたのだが、そんなことよりも今回読み返して印象に残ったのは、「アサッテの人」で出てきた言葉「ポンパ」「チリパッハ」「ホエミャウ」「タポンテュー」が前作の説明もなく、骨髄ガンで入院中の妹と血のつながってない兄の会話劇に当たり前のように登場することであった。言葉だけが小説から小説に飛び移ったように。登場人物ではなく言葉が主人公のスピンオフ作品のように「りすん」が読めてくるのだ。さらには観劇直後ということもあり、そこに俳優、飴屋法水による叔父の声が重なってくる。と同時に、「これは小説である」という言葉が時空を超えて去来してきた。
演劇と小説。「アサッテの人」と「りすん」。この演劇が二人芝居ということも含めて「対」であることが非常に意味があるように思えてならない。それならば当然、過去と現在も考慮に入れるべきだろう。
振り返れば、あの時に対峙していた父親の怯えた目は、私のことが恐ろしかったのが原因ではないのかとも思えてくる。これだけ怒鳴っているのに不気味にニヤニヤしていた息子の私という存在こそが意味不明で、父親の目には「怪物」のように見えていたのではなかったのか、と。
岸波流(きしなみ・りゅう)
本郷の本屋「機械書房」店主。85年生まれ。エドガー・アラン・ポーと同じ誕生日。著書に『図書室の記録』(而立書房)、共著に詩の絵本『夜にてマフラー を持っていく月が』( 双子のライオン堂出版部)

