物語を摂取する方法のひとつとして朗読があるのだけれど、それはつまり『体全部で読書をする』ことだと思っている。
そして朗読とは《文字言語》で表現された文学作品を《音声言語》で再構築する芸術だと、東百道氏が自身の著書『朗読の理論』に記していた。私はこのひとの朗読を知らない。けれどこの言葉を信じている。
数年前、朗読家の馬場精子さんが読む『銀河鉄道の夜』を聴いた。
夜の上野水上音楽堂の舞台に立ち、たった一人であの大きな物語を担っていた。薄く音楽がかかっていることすら忘れてしまう完全な集中のなかで、九章の終盤「別れ」直前の二人の会話に私はまるっきり体を預けてしまった。「カンパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう」。
文字で読んだことも声で読んだこともある文章なのに、それを聴いた私は「カンパネルラにはもう会えないんだ」という実感がほとんど天啓のように突き刺さり、涙がぼろぼろとこぼれて止められなかった。あの物語を読んでこんなに「どこまでもどこまでもほんとうは一緒にいきたかった」と思ったことはない。
目で読んだ物語を耳で聴いて、作品に出会い直した瞬間だった。
『銀河鉄道の夜』は美しく、難解で、何度読んでも最後まで掴み切れない余白と魅力のある作品だ。
私は今でもまだ、読書をし、朗読をし、読書会という場で意見を交わすことで、何度もこの作品に出会い続けている。
先月、私が担当する「朗読で楽しむ連続読書会『銀河鉄道の夜』」の範囲は九章の終盤「別れ」直前の二人の会話の場面だった。「カンパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう」。
あの時観た舞台と同じ箇所を、私もまた人前で読んだ。
実際に朗読してみると、あの時の私と同じように涙をこぼした参加者の方がいた。
なんて素直な感性の方だろう!と感動すると共に、この物語の強さに改めて驚かされ「あなたって、こんなに読んでもまだ私に見せない顔があるんだね」と優しい気持ちになってしまった。
声で読んだ物語をひとに聴いてもらうことで、また別の角度から出会い直した瞬間だった。
おそらく目で読まれることの多いであろう『銀河鉄道の夜』を、声で読んだことがあるひとはどれくらいいるだろう。
ぜひ、目と耳の両方で、体全部で、作中のオノマトペを、登場人物の感情を読んでほしい。文字ならば秘めていられても声は嘘を吐けないものだから、あなたの声にも彼らの気配が乗るかもしれない。
例えば『銀河鉄道の夜』第三章『家』でのジョバンニとお母さんの会話。
「ああぼく岸から見るだけなんだ。一時間で行ってくるよ。」
「もっと遊んでおいで。カムパネルラさんといっしょなら心配はないから」
「ああきっといっしょだよ。お母さん、窓をしめておこうか」
果たしてジョバンニとカンパネルラは本当に「一緒」だろうか。ジョバンニはどこまでこの言葉を信じて言っただろう。どんな気持ちで、どんな表情で。
物語の中の彼らが吐いた嘘や込めたほんとうを確かめにいってほしい。
私にとって、体全部で読んだ『銀河鉄道の夜』は眩しかった。それは羨望を覚えるだとかの複雑な意味ではなくもっと単純な感覚の話で、印刷された黒い文字がちかりと光る気がしてしまう。私はこの作品に、暗闇で瞬く無数の青いシグナルのイメージを持っている。眩しくて寂しい、いのちが放つ電気信号の青色だ。
あなたはどう感じますか?
黒い文字があなたにとって何色に見えたかは、もう時間ですから、この次の理科の時間にお話します。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へでてよくそらをごらんなさい。
ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
高村読人(たかむら・よみひと)
朗読家。どこかで細々と朗読している。

