【読み物】探索可能性的領域(真木由紹)

 私の知る範囲ではマーブルチョコの食べ方は筒から手のひらに落として、か、筒を口元に迎えて、か、のどちらかである。ところが三歳の姪は座卓上の文庫本にわざわざ色とりどりの五粒を乗っけた後、小さな手元でふらふらと文庫本を口に寄せ、口中にあっさりと滑り落したのである。伯父が絶賛を拍手に代える一方、姪はママ探しのため、こともなげに居間から消える。そんな姪から偶感をもらうに本を読むものとばかり認識しているのは一つの狭窄でもあって、意外なほどもったいないことなのかも知れない。

 埼玉の友人は張愛玲の作品のみならず、表情も好きなようで、本人そのものを書影に使った数冊を額縁に入れた写真のごとく書棚に立てかけている。ちなみに友人は中国語が分からない。つまりは読めなくとも書物は有効ということになる。又、台南の友人は自身の敬愛する蔡明亮(ツァイ·ミンリャン)映画のシナリオ本を鉄瓶置きにしている。「因為台灣和日本不一樣,濕氣很重的呀(日本と違って湿気がすごいからさあ)」とは彼の言葉だが、たとえ紙魚やらヤケがいかに回ったところで書物は有効という話である。考えてみれば蔡明亮の映画自体が素敵な代用に溢れている。何らかが何らかの代用として用いられる様子の多さとそのさりげなさ。その点を踏まえれば友による有効代用はファンならではの道理と言える。

 先日、パークにてスケーター仲間でもあるこの友人に『全スケートボード史』(イアン·ボーデン著、市井吉興監訳、塩見俊一、住田翔子、豊島誠也訳、梶谷雅文編集協力、晶文社、二〇二四)を土産として渡した。私がこちらを買い求めた二年前には言うまでもなく版元の入るビルに一礼した後、滑ると読むを同時に行いながら帰途についたわけだが、この度、文学と歩行の親和性、又、目的論に縛られなくとも滑稽に映らない点でスケボーは速度が出るとも歩行寄りではなかろうか云々、胡坐のまま抜かしていれば、土産を捲っていた友人の姿は消え、ただ土産それ自体がコンクリの地面に縦置かれているではないか。と、視界の外でウィールの摩擦音が激しく始まった。そしたら、あっと言う間だ。ボードのコンクリを弾く音と共に見目麗しいオーリーが『全スケートボード史』の遥か上を、行った。まさに書物の真上を最高到達点とし、その一点で静止したかのような錯覚をもたらすふんわりしたオーリーだった。

 書物には読むという約束事の外にも語るに豊饒な物語がたんまり控えているに違いない。もう少し言えば、書く、集める、編む、買う、こういった言葉からもずっと離れたところに存在する諸々にも、だ。いずれも書物の可能性と換言しても問題なかろうし、殊にそれらをこそ面白がりたいと思うこの頃なのだ。                            

真木由紹(まき・よしつぐ)
1982年生。時折『週刊読書人』、『図書新聞』に書評を寄稿。小説『台湾および落語の!』の華文版が台湾にて近く出版予定。双子のライオン堂にて呉明益『自転車泥棒』連続書会の案内人を務める。